『日本人の坐り方』

矢田部英正著 集英社新書 2011年

いやいや、大変面白い本でした。正坐は日本の昔ながらの坐り方ではなかったようなのです。

「平安時代から江戸時代のはじめ頃まで、正坐は極めて珍しい坐り方であったのだが、幕末になるとこれが町人女性の一般的な坐り方になってくる。」

「中世の絵巻を見ると、庶民の日常生活の中でも「立て膝」をしている女性が普通に見られるのに対し、正坐をしている人が極めて少ない。また寺院の中で説法を聞くようなかしこまった場面でも、女性が「立て膝」をしている事例は数多くある。」

「茶の湯の作法が成立した16世紀はじめころから江戸時代のはじめころまで、茶道の整枝来た坐り方は「立て膝」だったし、千利休の肖像画などを見ても、その坐り方jは現代風に慎ましく「正坐」しているイメージとはずいぶん違う。」

ほーぉ。立て膝で茶道!

昔の絵巻や肖像画などから当時の人の坐り方を推測し、座り方の変遷、正坐が「正しい坐り方」となっていった経過(明治の礼法教育で庶民にも普及した)を考察してあります。

巻末には坐り方のバリエーションもあって、これがまた面白い。いろんな坐り方できるのね。

韓国の時代劇を見ると女性も立て膝で床に座っていて、最初はなんだか違和感がありましたが、それは日本では立て膝はお行儀が悪い、ってことになっているからですね。やってみると背すじも伸ばしやすく、なかなか合理的な座り方です。

以来、教室では「膝が痛い人はこうやって膝立てて、背すじのばして坐ってみて下さい」と勧めています。

正坐が正しい坐り方、とされるのはいいけど、足を崩した時のバリエーションの一つに立て膝も残してほしかったなあ。そうしたら、膝を悪くして正坐は難しい人でも、あまり負担なく座れますから。

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『ミボージン日記』

竹信三恵子著 岩波書店 2010年

30年間ともに暮らした夫が海の事故で急死した、その後の日々をつづったものですが、どのトピックもなぜそうなるのだろうと突っ込んだり、相手につい「取材」してしまう、新聞記者魂あふれる(?)1冊。

夫との馴れ初めに始まり、困難な共働きの日々とそれをどうやって乗り越えたか、楽しげな家庭の様子が目に浮かびます。メアリーポピンズの「いいものはなんでも、いつか必ず終わりがきます」という言葉を引いて、

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「夫が亡くなる数年前から私の頭の中にはこの言葉が何度も行き来していた。

そして「いいもの」には確かに 「終わりがあった」。

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一方で、死別と離別で違うこと、母子家庭の困難、再婚について、悼みのことばのかけ方、など単なる体験談にとどまらない踏み込んだ考察がされています。

その中で印象に残ったのが、次の部分、

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そう、人は親しい者の死から「立ち直った」りはしない。ただ、その死と、なんとか折り合って、死者とのつきあい方を静かに身に着けていくだけだ。私は以後、ミボージン達の話を聞き出そうとすることをためらうようになっていた。

身近な人の喪失は、戦争の重さをも実感させる。「喪失というきずな」が、戦争の犠牲者の遺族への共感をも強めるからだ。

夫が亡くなった後、私は、戦争についての報道を見聞きするたびに平静ではいられなくなった。一人死んだだけで、こんなに喪失感があるのに、人がたくさん死ぬ戦争では、人はどんなにつらいだろうと思うようになってしまったからだ。

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ここを読んで、今回の震災の報に接して著者の気持ちはいかばかりであったか、と思いました。

そして、身近な人が突然いなくなってしまった、遺体も見つからない、その人を偲ぶよすがになるものも津波にさらわれてしまった、そんな体験をされた多くの人達の気持ちを想像しようとしても、とてもできない、と感じるのです。

 

「さよならのときの静かな胸 ゼロになるからだが耳をすませる

生きている不思議死んでいく不思議 花も風も街もみんなおなじ

・・・・・

始まりの朝の 静かな窓 ゼロになるからだ充たされてゆけ」

無常感、鎮魂と再生、そんな言葉を思い浮かべながら繰り返し聞いています。

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『あきらめないで! 「鍼」ならここまで治る』

ー菊池式脈診流鍼灸・漢方の驚異ー

菊池亨  藤巻一保著  学習研究社  2009年

菊池氏の患者でもある藤巻氏が菊池氏と患者さんに取材して書いたもの。症例の紹介だけでなく、東洋医学および脈診治療についてわかりやすく書かれています。

 

左右の手首の脈の微妙な変化で体調を見極め、経絡(けいらく)を刺激して治療する施術法を経絡治療とか脈診流と言い、流派もいろいろあります。鍼灸学校の学生の時、経絡治療の勉強会があり1年ほど参加していました。

手首の脈は西洋医学でも心拍数をとる時にも使いますが、東洋医学ではそこに指3本を当て、それぞれの部位の脈の状態で各経絡の虚実などを把握します。勉強会で患者役の学生の脈に触りながら、先輩がツボに軽く鍼を当てるとその経絡の脈が変化する(力強くなる)という体験をした時には本当にビックリしました。西洋医学しか知らない頭では想像もできないことでした。

脈診流の先生は脈だけを診て診断、施術し、脈の整い具合で効果も判断します。脈の状態を脈状と言い、この診断は相当難しいものです。身につけるにはかなりの年月がかかりそうだと思ったこととアロマテラピーのオイルマッサージに大きな魅力を感じたのでそちらの道には進みませんでしたが、この本で紹介される先生の施術は脈診流治療の力をまざまざと見せてくれます。

たとえば、膝を強打して立つこともできなくなった能楽師の治療。

「膝関節部分で骨と骨をつないでいる靭帯が前十字・後ろ十字ともに損傷し、膝関節のクッション役になっている半月板もやられて、ひどい炎症を起こしていた。そこで幹部から遠く離れたところ、この場合であれば肘から徐々に緊張を緩めていって気血水の流れをよくし、患部により多くの気血水が流れるようにするとともに、鍼で鬱血を抜き、病邪を流して、炎症を鎮めていったんだ。」

 

股関節の痛みで歩けなくなり人工股関節を勧められた女性には

「股関節の所で流れが止まっているなら、その先の方の流れをまずよくしてやる。そうすればおのずと患部の流れもよくなる。そのためにぼくはまずマッサージをやった。それから指圧、それから鍼というようにして段々ゆるめていった。」

「O脚がまっすぐになったというのは全身を緩めて気血の流れをよくしたんだ。流れが正常なら人間の身体は錆つかない。O脚も改善してくる。」

 

他にも多くの症例が紹介されていますが、脈診治療でここまでできるのかという可能性と気血の流れをよくすることの重要性を強く感じました。読んでいると神業のような治療ですが、長年にわたる脈状の観察から生まれたものです。私も努力しなくてはと改めて思いました。

本の最後には患者さんに勧めている治癒力アップ体操も載っていて、手首回しや寝ながら運動、空中散歩など早速いくつかを教室で紹介しています。

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『俺俺』

星野智幸著  新潮社  2010年

マクドナルドのカウンターに置き忘れてあった携帯。ちょっとした出来心で「母」に電話し、適当な作り話をして100万円振り込ませるのに成功した「俺」。携帯は川に捨て、1件落着と思いきや、3日後、アパートに帰ると「だいちゃん? ずいぶん遅かったじゃないの」という声とともに見知らぬおばさんが現れる。携帯の持ち主の母親だ。

なぜか「俺」のことを自分の息子と思い込んでいる。仕方なくありのままを話しても「母」は「言うに事欠いて、自分は息子じゃありません、だと?」と激するばかり。

一方、2年ぶりに自分の実家へ帰ってみると、「またあなたですか! いい加減にして下さい」と実の母親に追い返される。そして、そこには「俺」がいて先週も同じようなヤツが来た、という・・・・。

そうこうするうちに「俺」は永野均から檜山大樹(だいちゃん)になっていて、自分でも違和感なく大樹と名乗るようになる。次第に「俺」がどんどん増えていき、職場に行っても電車に乗っても「俺」ばかりという状態に。やがて名前も意味を持たなくなっていく。

安部公房の不条理劇を読んでいるような気分になってくる前半です。

 

「俺」が集まって「俺ら」になり、気ごころの知れた同士(なんせ、全部自分ですから)で居心地のよさを味わったのもつかの間、どこへ行っても「俺」だらけになり、やがて「削除」が始まる・・・・・。この急展開は、わかるような気もしますが、正直言って今一つよくわからない。

でも、終盤の「俺」の独白。

「こんなにまで俺が誰かの役に立ったことなんて、いまだかつてあったか? 俺は切実に求められて、しかもそれに完璧に応えている。俺は今、俺史上最高に輝いているんじゃないか? ・・・・そうなのだ、俺は今、人の役に立っている! ・・・俺は今、心から必要とされている!」 

というくだりには胸を打たれます。どんなふうに役に立っているかは実際にお読みいただいた方がいいと思いますので、詳しくは書きませんが。

 

今はほとんど聞きませんが、私が20代の頃(30年前でございます)、「アイデンティティ・クライシス」という言葉がありました。アイデンティティ、自己の存在証明、自分の存在価値、誰にも代替することのできないものとしての存在感。

そういえば久しく聞いてなかったなあ、現代版のアイデンティティクライシスと理解すればいいのだろうか、と思っていたら、たまたま読んでいた別の本で次のような言葉に出会いました。

 

「『名無し』というのが2チャンネルでよく用いられる名乗りですけど、これは『固有名詞を持たない人間』という意味です。『名無し』が語っている言葉とは『その発言に最終的に責任をとる個人がいない言葉』ということになる。」

「僕はそれは大変危険なことだと思います。攻撃的な言葉の標的にされた人を傷つけるからだけでなく、そのような言葉は発信している人自身を損なうからです。だって、その人は『私が存在しなくたって誰も困らない』ということを堂々と公言しているからです。『私は個体識別できない人間であり、いくらでも代替者がいる人間である』というのは『だから、私は存在する必要のない人間である』という結論をコロラリーとして導いてしまう。」

内田樹著 『町場のメディア論』 光文社新書

「個体識別のできない人間」=「俺」・・・・まさにそれを描いた小説です。

アイデンティティ・クライシスがネットで増幅された? いや、もっと根源的な何か、現代社会のシステムからもたらされる何かがあるのか? 「ふーむ・・・・・・」と考え込んでしまいました。

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本屋で3時間

今日、午前中はロルフィングというボディワークのワークショップへ。テーマは「首」。首こりの私としては興味深々。インナーマッスルを使ってうなずくと首の突っ張りが少し取れる気がしました。アウターの筋肉が緩むようです。面白い!

午後はナディアパークの7階にあるジュンク堂書店へ。地下1階が一般書で7階は専門書です。

久しぶりに時間を気にせず、あっちの本棚、こっちの本棚とさまよい、あれこれ見て回りました。欲しかったのは薬になる野草の本、精神分析の神田橋條治氏の著作、ボディーワーク系の本(アナトミートレインとか経筋とか)。

薬草の本はたくさんあるのですが、私が欲しかったのは「こういう人には使っていけない」という禁忌が書いてあるもの。漢方薬ほどではないにしても、適応症というものがあり、自然のものだかえらいいだろうとやみくもに使うと、逆効果になることがあるからです。

何冊もチェックして小学館の『日本の薬草』(貝津好孝著)を買いました。「妊婦や冷え性の人は服用しない」「のぼせやすい人は服用しない」「あまり体質を問わない薬草である」などと書いてあるのが便利です。

「ヨモギ」のページには、

薬効は「下腹部の冷え、痛み。生理痛、生理不順、子宮出血」「温めながら治す薬で科服の冷えや痛みによい」使い方は「天日に干し」「1日3~5グラムを600ccの水に入れ30分ほど煎じ3回に分けて服用する」

最近、韓国のヨモギ蒸しというのが流行っているようですが、やはりヨモギは冷えにいいのね。お灸で使うモグサはヨモギから作るし。

鍼灸学校の時にヨモギからモグサを作るという実習があり、乾燥した葉(有志の学生と先生がとってきてくれたもの)をすり鉢でゴリゴリとすりました。ゴリゴリやるうちにガサガサした繊維とホワホワした部分に分かれて、モグサになるのがとても面白かったなあ。

 

もう1冊は神田橋條治著『改訂 精神科養生のコツ』 岩崎学術出版社

3週間ほど前に同じ著者の『発達障害は治りますか?』花風社 という本を読み、それで紹介されていた養生法も載っていたので、改訂前のものも持っているのですが、迷わず購入。チラチラと見ただけも、すごく面白そう。東洋医学から各種代替療法まで、効きそうなものは何でも取り入れている様子がわかります。

ボディーワークの本はピンと来るものがなくて今回は見送り。子育て関係の本を1冊。3時間もウロウロさせてもらいました。

急ぐ時はアマゾンで頼みますが、本ってやっぱり見てみないとわからない部分があるので、本屋さんは貴重です。大事にするためにも、できるだけ本屋さんで買おうと思うのでした。

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『なんで子どもを殺すの?』

猪熊弘子著 講談社 2007年 副題が「名越康文の処方箋」

ドキッとするタイトルですね。副題にあるように、精神科医の名越氏とともに母親による子殺し事件や実際のカウンセリングの再現を通じて、子育てをめぐる不安について考える1冊。

「自分の子どもを殺すなんて、ありえないです。」という著者に名越氏は

「『もし子どもがいなければ』ということを想像したことはありませんか。そして、そんな想像をしたことに対して、あなたは何か大きな罪を感じている。あなたは、自分が、『子どもがいなければ』と思ったことが、子どもを殺したに等しいというような、罪悪感にとらわれているのではないでしょうか?」と、問い返します。

最も印象に残り、なるほど、と思ったのは以下の部分。

猪熊「愛せないと思いながら踏みとどまれる人と、歯止めがかからずに一線を越えてしまう人。その違いはどこにあるのでしょう?」

名越「他者に『出会った人』と「出会っていない人』の違いと思います。」

猪「他者に出会う?」

名「自分が理解できない部分がある人を『他人だ』と思うことです。・・・・・・・自分の子どもに対して『この子はある意味で他人なんだ』と気づき、それをした時のショックを自分の中に宿しておける人と、それをなかったことにして先に進んでしまう人との違いですね。・・・・・・・・・子どもが自分と違う行動をしたら、それを『すごいなあ』『面白いなあ』と思えるかどうか。子どもを他人だと認め、自分との違いを素直に認人は虐待にはつながらないはずです。」

私も3人の子どもがいて、子育ての日々は自分とはずいぶん違うなあと思うことの連続でした。私にはできないことをするのに驚いたり、こうすればうまくいくのに、と思うことはしなくて歯がゆく感じたり、将来が心配になったり・・・・・。

いろいろ思い悩みましたが、「親の思うようにならないのが子ども!」と思い定めて、少し楽になりました。子どもが転んでも私が痛いわけじゃないし・・・・。

子どもを虐待する親の「加害者意識があまりない。むしろ被害者意識が強い」という特徴にも驚きました。

名「たとえば赤ちゃんの夜泣きが続いたとき。赤ちゃんなんて泣くのが当たり前なのに、それを自分への攻撃だと感じてしまう。そうなると、赤ちゃんに腹を立てるというより、赤ちゃんに「報復する」というレベルの行動をとってしまうわけです。」

自分への客観性を高めるための方法として紹介されているのが育児日記です。子どもの起きた時間やミルクの回数といった単なる事実の記録ではありません。

「買い物先でこんなことがあった、夫とこんな話をしたというようなことを書くんです。毎日書くのが無理なら週に二日でもいい。自分の周りで起きたこと、それについて感じたことなど、半年間、がんばって書き続けることです。」

書くことで自分の中にわき起こった感情を冷静に見つめることができる、そのとき、客観性が生まれ自分の姿を冷静に見極めることができるようになってくる。

この部分は非常に興味深く読みました。これは育児中に限ったことではありません。書くことで自分の内面深くへ降りて行くことができるのです。頭の中にあっただけのことが書くことで新たに立ちあがってくる。客観視できるものになる。それはとてもよく理解できます。このブログも、患者さんにいつも話していることをまとめておこう、と思って始めたのですが、話すと書くとでは大違い、といつも感じています。

子育てに悩む患者さんが時々いるので(それこそ、「窓から放り投げたくなる」とか「つい、ぶってしまいました」とか)、読んでみたのですが、鋭い指摘と奥深い内面に迫った考察にうなずきながら読了しました。

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『風に舞いあがるビニールシート』

NHKの土曜ドラマでやったので、見た方もいるかもしれませんね。先週の土曜日が最終回でした。森絵都作 文芸春秋社

ドラマを2回ほど見たところで面白そうだと思って図書館にリクエスト。6話入っている短編集でした。

この6話がそれぞれに面白い。

プディングを入れる器を探しに岐阜の多治見まで行かされる弥生。おかげでクリスマスのデートをすっぽかす羽目に(「器を探して」)。

犬の保護活動の資金を稼ぐためにスナックで働く恵利子(「犬の散歩」)。

働きながら大学に通う学生のためにレポートの代筆をする伝説の8年生、ニシナミユキ(「守護神」)、など。

表題作は国連難民高等弁務官事務所の現地スタッフになった里佳とフィールドに生きる専門職員のエドの物語。愛し合って結婚したものの、エドはほとんどがフィールド勤務で1年のうちほんの数日しか会えない生活。

フィールドへ行こうというエドの誘いをかたくなに拒む里佳。家庭のぬくもりでくつろいでもらおうと里佳が努力すればするほど落ち着かなくなるエド。

離婚、そしてエドの死。その悲しみから立ち直っていく里香・・・・。短編ではありますが、読み応えのある話でした。ドラマは5回連続になったのでかなりふくらませてありますが、原作の趣旨を損なわない、いい話になっていました。

どの話も主人公が自分の人生を生きようとしていて、気持ちよく読めました。

面白かったので同じ作者の『永遠の出口』『いつかパラソルの下で』も読みました。登場人物が魅力的というわけでもカッコいいわけでもないのですが、正直に自分を見つめているところがよかった、といえばいいのでしょうか。すがすがしい読後感でした。

若い頃は乱読で手当たり次第に読んでいました。ただただストーリーを追いかける読み方。推理小説などはそれなりにカタルシスに至りますが、最近はそういう楽しみ方ではなく、人物の描かれ方に興味が行きます。前に戻って読み返す、なんてこともするようになりました。

ちなみに、「器をさがして」では主人公が多治見の市之倉へ窯元を訪ねて行くのですが、そこは実家へ帰る時にいつも通る、愛岐道路(あいぎどうろ)から山を上がって行ったところなのです。作者もここへ取材に来たのかしら。なんか親しみがわいちゃった。

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風呂の栓・2

昨日の続きです。

「風呂の栓がしまる」、これは塾に限らず、学ぶ・教える、あるいは育つ・育てる、という場にはどこにでも当てはまることだと思います。

ここでのポイントは「子供本人がしめないことには永遠にしまらない。」という部分。自分でしめるしかないのです。

それを見守ることが教える側、育てる側に求められる。

子どもが困難にぶつかると、ついいろいろ口を出したくなる。年の功で経験は積んでますからね、近道はわかっている。そんな遠まわりをしてどうするの、と言いたくなる。でも、傍から見たら無駄に思えるその遠まわりが、実は無駄ではなく必要な過程なのだと思います。

そう思うと「ああやって学んでいるのね」と見守ることができるようになる気がします。

そういう目で見ると、子育ての場だけでなく、身の回りの人間関係でもそう思うことがよくありますし、治療や自力整体の場でも患者さんや生徒さんの様子に「あ、やっと腑に落ちたんだな」と感じることがあります。

私って気が短いのですが、ちょっと長くなった気がします。

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風呂の栓・1

??何の事?というタイトルですが・・・・

しばらく前に読んだエッセイが印象に残って、その後いろいろな場面で思い出しているのです。

福音館書店の雑誌「母の友」には「父の友」という連載があり、いろいろな男性が3ヶ月ずつ子育てをめぐるあれこれを書いています。4月号は作家の奥泉光氏で、タイトルが「風呂の栓を抜いてしまう」。

学生時代に塾の先生のアルバイトをした時の話です。

生徒の成績アップを目指して、いろいろ工夫したりするのだけれど、しばらくやっていれば、教えたからできるようになるわけじゃないことに気がついてくる。

すなわち、「でき」る子は与えられた知識や情報を自力で整理し蓄積するシステムがあるのに対し、「でき」ない子にはそれがないという事実である。したがって、このシステムを育成することこそが急務だとわかってくる。

当時、自分や同僚の先生たちはこのシステムが獲得された状態を「風呂の栓がしまる」と表現していた。つまり、風呂の栓がしまらない限り、いくらお湯を注ぎこんでも、一向にたまらず、ざあざあ流れてしまうというわけだ。

栓ができない理由は子どもそれぞれに違うけれど共通しているのは親の存在。

ここでいう風呂の栓は誰かが本人に代わってしめてやることはできない。子供本人がしめないことには永遠にしまらない。だから、こちらとしては何とか本人がしめられるようもっていき、あとは傍らから祈るしかないわけである。

よし、なんとかしまりそうだ、いい感じだぞと思って見ていると、お母さん(お父さん)がバスタブにざぶざぶ入ってきて栓を抜いてしまう。あれこれ口を出したり世話を焼いたりして、早い話が、子供の自立を阻害してしまうのである。

学生だった当時は「子離れ」ができていないんだとわかった気になっていたけれど、自分も親になった今、風呂の栓を抜いてしまわない自信はまったくない、と結ばれていました。そんなに断言しなくてもいいと思うけど。

この「風呂の栓は自分でしめなくてはいけない」という部分が3月に見た映画「里山っ子たち」に出てきた「抵抗的課題」というキーワードと重なります。

風呂の栓をしめなくちゃと気が付いて自分でしめる、高い山を自分の力で乗り越える、そういう経験が本当の力になっていく・・・。塾の先生をしている人にこの話をしてみたら深ーくうなずいていました。

自分の子育ての経験でも、手や口を出さないようにしていると(実はこれがとっても大変なのですが)、こちらから見るとすごく効率が悪いことや遠まわりをしながらもちゃんと目的を果たしたり、果たせなくても次の機会には失敗しなかったりしています。もう、そばにいるとハラハラするので親としては見ないようにするのが一番、て感じです。

このエッセイを読んでから、「風呂の栓」というキーワードがずっと頭に引っ掛かっていて、子育てだけじゃなく、いろんな場合に当てはまることだと感じています。長くなるので続きは明日。

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就活で自分と向き合う

『就職迷子の若者たち』 小島貴子著  集英社新書 2006年

大学4年の娘の就活をみていて、大変そうだけどいい経験だなあと思っていたところだったので手に取りました。

著者は若者や中高年の就職支援をしているキャリア・カウンセラー。

「就職先をどうやって選んだらいいか分からない。厳しい就活を乗り切る自信がありません。」という大学生。

「父親が来年定年退職になるので、今度こそなんとか就職してくれと言われて・・・」という27歳のニートの青年。

「アルバイトしても周りの人との付き合い方がわからなくて結局やめてしまう」と、バイトも2ヶ月しか続かない23歳の女性。

そういう相談者への答えを通じて、就職し仕事を続けるために必要なことを丁寧に、噛んで含めるように教えてくれる本です。なにより、相手の気持ちをまずしっかり受け止めて、その中から本人も気がついていない評価できるポイントを見つけて、それをうまく活用して就職につなげる著者の指導力には脱帽です。

内容も「なるほどねぇ」と思うようなことばかりで、27歳の二―ト君も、公務員試験浪人で2年の空白ができてしまった青年も、著者のアドバイスで自分の関心に近い仕事、能力にあった仕事を見つけて正社員になっています。

バイトが続かないという女性は、会社に友達が来て長話をしていたらそれを叱られてイヤになった、携帯の電池切れで遅刻の連絡ができなかった、メモをとらなかったので電話の伝言を忘れて迷惑をかけた、といった理由で会社に居づらくなっていたのです。

「そんな非常識なことしてたら居づらくなって当たり前でしょ。」と頭ごなしに叱りたくなるところですが、著者は自分も最初の会社で非常識なことをして叱られた、という話から始め、社会には守るべきルールとマナーがある、と教えていくのです。新人を迎える側には「基本的なマナーがわからないなら、今から教えよう。」と思って下さい、とも。

「就職活動は、自分と向き合う作業の連続です。この自分を探す経験は、仕事に就いてから必ず生きてくるでしょう。働くということは生活を支えるためのものですが、働く中で新しい自分を作っていくことでもあります。これから就職しようとする人、一人一人が、この経験の中で発見した自分を土台にして、この働くことのすばらしい意義を見出していってほしいと思います。」

就職という道筋で迷っている迷子たちへ送る、〈働く〉ことに魅入られた著者による道案内。

「今どきの新入社員は!」と思っている人や我が子の就職を見守る親(これが結構ハラハラして、黙ってみてるの大変かも)にも、いろいろなことを教えてくれる1冊です。

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